Book review 〜春風駘蕩〜

気に入った本の書評・感想や本関連の話題を書いていきたいです。

鎌倉五山巡り 建長寺

建長寺へ

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スタートは北鎌倉駅です。

 

改札を出て、鎌倉五山第二位の円覚寺を左手に見つつ、踏切を渡り国道21号に出て鎌倉駅方面に向かいます。

 

そこから約15分。距離にして1km程度の所に建長寺はあります。

 

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北鎌倉方面から行くと、駐車場を抜けて総門に向かえます。

 

総門を潜ると右手に拝観受付。

拝観料は大人¥500でした。

 

建長寺御朱印をお受けする場合には、拝観受付の向かいにある御朱印所に御朱印帳を預けて境内を拝観します。御朱印帳を番号札と引き換えいざ拝観です。

 

 

鎌倉五山とは

建長寺拝観レポの前に、そもそも鎌倉五山とは何かを説明しておきましょう。

 

鎌倉五山とは、5代執権北条時頼の時代に中国の五山の制に倣い、本邦でも臨済宗の寺院を格付けしたものです。

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「五山之上」と呼ばれる最高位に南禅寺が位置し、その下の寺格に鎌倉五山京都五山が置かれています。

 

 

建長寺とは

さて、建長寺です。

三門・仏殿・法堂・方丈がほぼ一直線に並び、そのまわりを塔頭が囲む臨済宗建長寺派大本山。5代執権北条時頼が宋の高僧・蘭渓道隆(大覚禅師)を開山に迎え、建長5年(1253年)に日本初の本格的禅寺として創建。

歩く地図鎌倉・横浜散歩 2018―古都と港町歩きの決定版! (SEIBIDO MOOK)より引用

 

 

建長寺を歩く

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拝観受付を済ませ、歩をすすめると立派な三門が目に留まります。
現在の三門は1775年に再建されたものです。

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 扁額には建長興国禅寺の文字が。

こちらは、後深草天皇の宸筆との事。

 

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こちらは法堂の天井画「雲龍図」。

建長寺創建750年記念事業により描かれたものです。

 

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方丈の手前には唐門もありました。

 

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方丈では学生さんが座禅を組んでおられました。その方丈をぐるりと反対側に回り込むと庭園があります。

この庭園は、 蘸碧池(心字池)を中心にした池泉庭園。

蘭渓道隆(大覚禅師)の作庭と伝わります。

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京都に多くみられる枯山水とは異なり、鎌倉時代を彷彿させる池泉庭園であり、こちらはこちらで趣があります。庭園の見事さからか、自然と静寂が場を支配していました。

 

 

 

簡単ですが、建長寺のレビューは以上となります。

次回は建長寺の鎮守社・半僧坊を紹介したいと思います。

鎌倉五山巡りをしてきました

鎌倉五山

近頃、全12巻の超長編小説をメインに読んでいるため、中々ブログのネタがありません。

 

なので、今回は先日行った鎌倉五山巡りについて書かせて頂こうかと思います。

 

まず、鎌倉五山巡り前に購入したガイドブック(地図)がこちら。

 

 私は、京都版も持っているのですが、何せ地図が詳細で、石碑関係もしっかり地図上に網羅されているという歴史好きには便利なガイドブックです。

オシャレなカフェやお土産もたくさん載っていて、見てるだけでも楽しい一冊です。

 

今回はこのガイドブックを参照しながら、鎌倉五山を第一位から第五位まで順に巡り、御朱印を拝受しました。

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右より第一位から順に、建長寺円覚寺、壽福寺 、浄智寺浄妙寺です。

 

GPSロガーの軌跡を見て頂くとわかると思うのですが、かなり無駄な動きが多いです。

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というのも、鎌倉五山は上図のような位置関係をしているため、同じ道を何度も往復しなければなりませんでした。

 

切り通しを見たくて遠回りした所も多々。

 

また、鎌倉宮鶴岡八幡宮などにも寄り道したので、上図のような複雑な軌跡となっています。

 

昨今の校外学習

当日は小・中学生の校外学習がとても多かったです。昨今の御朱印ブームの影響でか、小中学生も御朱印帳を持参して御朱印をお受けしていました。

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鶴岡八幡宮御朱印所では列ができており、神職の方は延々御朱印をお書きになられていました。数時間後にもう一度通りかかった時も同じ神職さんだったので、1日にかなりの量をお書きになられているのではないでしょうか…。特に今のGWの時期ともなると。

 

また、鶴岡八幡宮のアイドル(?)タイワンリスも相変わらずの人気っぷりで、擬宝珠に乗り、カメラ目線で写真撮影に応えていました。校外学習の生徒は大興奮必至。

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 外来種なので、喜ばしい事では決してありませんが、今や鶴岡八幡宮の名物の一つとなってしまっていますね。

 

また、鶴岡八幡宮参拝中に校外学習の(おそらく)小学生に写真を頼まれたのですが、渡されたのがなんとiPad

時代の変化を感じました。

iPad以外にもデジタル一眼を持っている生徒も多く、フィルムカメラ時代に校外学習を行なっていた私としては時の流れを感じざるを得ません。

ただ、写真を撮った後に「ありがとうございました!」と帽子を取って元気に謝意を述べられた時には、ソフトは変わっても変わらぬハードがあるものだなぁ、などとしみじみ思ってしまいました。

 

さて、鎌倉五山巡りの雑感を述べてしまいましたが、次回より第一位 建長寺 から順にブログにupしていきたいと思いますのでよろしくお願いします。

黎明に起つ 伊東潤

はじめに

『黎明に起つ』は、巷間では北条早雲の名で知られる、伊勢新九郎盛時(早雲庵宗瑞)の一代記である。 

黎明に起つ (講談社文庫)

黎明に起つ (講談社文庫)

 

著者には先に刊行された、宗瑞を狂言回しに仕立てた『疾き雲のごとく (講談社文庫)』という連作短編集があるが、ここから更に新説を反映し、重厚感が増した作品となっている。

 

北条早雲とは

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 北条早雲は長く、伊勢の素浪人から身を起こし、下克上を成し遂げた人物として認知されていた。しかし現在では備中伊勢氏の出自であり、室町幕府の申次衆であったことが判っている。早雲は畿内明応の政変と呼応し、駿河今川氏の内訌の調停に成功したことで今川氏の家宰的立場となり、独自に伊豆、小田原と版図を広げ、最終的には相模全土を併呑するに至った。

また享年を88とされていたが、現在では64というのが有力視されている。

 

 

『黎明に起つ』を知ったきっかけ

私が『黎明に起つ』を知ったのは、海道龍一郎著『早雲立志伝』の解説を読んだ時であった。

早雲立志伝 (角川文庫)

早雲立志伝 (角川文庫)

 

なんと、同時期に早雲モノの作品を書いているにも関わらず、海道氏は伊東氏に解説を依頼しているのだ。伊東氏は海道氏に『黎明に起つ』の上梓を控えていることを伝えたが、海道氏は快諾したという。歴史小説家同士の粋なエピソードだ。

その時から『黎明に起つ』は読みたいと思っていたのだが、結果的に文庫化を待つことになってしまった。ただ、文庫化にあたってリーダビリティを高めるなどのリライトが大幅に成されたそうなので、結果的には文庫化を待って当たりだったようだ。

関東戦国史というと戦史が混迷極まり、非常に読みにくくなりがちだが、リライトの結果か、とても読みやすかった。そもそも情報量が多く読みにくいというのは、熟読を好まない読者層の言であり、伊東潤氏の小説を評価するのに「情報量が多く読みにくい」とするのは筋違いであるだろう。

 

 

読んでみて

『黎明に起つ』には中世武士のダンディズムを湛えた長尾景春や三浦道寸などの初老の人物が登場する。これが非常に魅力的に描かれており、面白く読めた。

宗瑞は「民の楽土を築く」というビジョナリー型の人物として描かれおり、最期までそのビジョンを抱き続ける。果ては後代にビジョンを託し、五代に亘りビジョナリー型の戦国大名として関東に覇を唱える事になったのは、その祖、早雲庵宗瑞の手腕に拠るものが大いにあったのだろう。その手腕には感服せざるを得ない。そういう点で早雲庵宗瑞は、私の理想とする人物の一人である。

 

太郎坊 幸田露伴

あらすじ

主人公は丈夫づくりの薄禿の男。ある真夏の、日の傾く頃、細君に酌をして貰い、いい気分で杯を重ねていた。しかしほろ酔いになったところで、手にしていた猪口を取り落として割ってしまう。この猪口は太郎坊と呼んで大事につかっていたものであった。細君が新しい猪口を持ってきても、主人は太郎坊を眺め「もう継げないだろうか」などと未練を言う。実はこの太郎坊、主人の若い頃に想い人の父親に貰ったものであり、その想い人との思い出そのものであった。主人は未練を断ち切るように、細君に太郎坊の来歴を語り始めた…

幸田露伴 (ちくま日本文学 23)

幸田露伴 (ちくま日本文学 23)

 

 

読んでみて…

「…ハハハハ、どうもちッと馬鹿らしいようで真面目では話せないが。」

と主人は一口飲んで、
「まあいいわ。これもマア、酒に酔ったこの場だけの坐興で、半分位も虚言(うそ)を交まぜて談(はなす)ことだと思って聞いていてくれ。ハハハハハ。… 」

そう言って主人は、太郎坊の来歴を語り出した。「虚言を交ぜて」と主人は言うが、これは過去の色恋を細君に話すのが恥ずかしいが故に、目くらましに投げかけた言葉であろう。

上記引用文から後は、殆どが主人の独白となる。引用文からも十分に伝わると思うが、露伴お得意のテンポの良さと歯切れの良さで、読みやすく、古さを感じさせない。古さを感じるとすれば、若き主人が想い人を太郎坊を使って揶揄うくだり。明治の男女の距離感が伝わる微笑ましい一文であった。

 

太郎坊はわずか10ページ程度の短編である。

しかし、その中には露伴の筆の妙が凝縮されている(露伴が好きな中国思想的な要素や、伝奇作品ではないが)。むしろ、色恋の甘酸っぱさを薄禿の主人に託し、太郎坊を介して、婉曲的に描いたところにこの作品の価値や面白さがあるのではないだろうか。

『城をひとつ』発売記念講演に参加してきました

小田原城銅門での講演会に参加

2017年4月1日(土)に伊東潤先生の『城をひとつ』発売記念講演が小田原城銅門(あかがねもん)内で行われました。講演後はサイン会も開催され、『城をひとつ』に印判入りの直筆サインをいただきました。

講演会の模様は2017.04.02付の東京新聞の記事にもなっていますね(私の後頭部が写っていることは内緒)

城をひとつ

城をひとつ

 

 『城をひとつ』は、後北条氏五代に仕えた軍師大藤一族を主人公にしたインテリジェンス合戦記。表題作を含む短編集です。

未読のため、レビューは読後に改めて投稿します。

 

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さて、こちらが小田原城の銅門。

2017.04.02 〜 2018.3.31の土日曜日および祝日に特別公開されています。

講演会は2017.04.01だったので、先行公開だったということでしょうか?

 

 

「北条氏の実像に迫る」

今回の講演のテーマは「北条氏の実像に迫る」でした。

講演はPowerPointで14枚のスライドを用いて行われました。各タイトルは以下の通り。

  1. 北条氏の実像に迫る
  2. 伊東潤文学賞受賞歴
  3. 最新作(2016〜2017)
  4. 時代小説短篇の歴代一位を獲得!
  5. 伊東潤の小説は、なぜ面白いのか
  6. 北条大河実現への道「今、なぜ北条氏なのか」
  7. 北条早雲(伊勢宗瑞)己の理想実現を目指した真の革命家
  8. 誤解されてきた北条家の実像
  9. 戦国大名北条家の特徴 (おもに三代氏康による施政・施策)
  10. 北条五代の目指したもの
  11. 北条氏が秀吉に臣従しなかった理由
  12. 北条家末期のSWOT分析
  13. 本物の氏政公と対談!
  14. 最新作『城をひとつ』

※ 13.「本物の氏政公」とは、真田丸で氏政公を演じられた高嶋政伸氏のこと

 

上杉謙信武田信玄にも触れたり、元コンサルタントであることを活かした北条氏のSWOT分析を紹介されており、とても興味深い内容でした。

 

 

北条五代が目指したもの

北条五代が目指したものとして、「分権国家思想」を提唱されていました。以下、スライド10.からの引用です。

北条氏「国家とは自然発生的伝統・地理的制約・経済圏の確立により、しぜんと規定されるものである。関東は、独立勢力圏として、すべての条件を満たしている。我々は関東に地域限定された政権を確立し、関東の民に安寧をもたらすことを目的とする」

これは、信長の“天下布武”構想と対立し、ひいてはこれを踏襲した秀吉政権と対立する一因になったと分析されています。

 

 

講演会に参加して

今回初めて伊東先生の講演会に参加させていただき、北条氏についてさらに興味を持てました。そして私もビジネスパーソンの一人として、伊東先生のプレゼンテーションの手法からも学ぶことが多くあり、とても充実した時間を過ごせました。

 

伊東潤先生の作品を読まれたことがあり、講演に少しでも興味を持たれた方は、今後講演会の機会があれば参加されることをお勧めします。

京都旅行で花街「島原」に行ってきました その2

置屋揚屋とは

本ブログは京都旅行記のその2です。

その1はこちら↓

京都旅行で花街「島原」に行ってきました その1 

 

 

さて島原大門を潜り、島原の地へと足を踏み入れ、置屋輪違屋」、揚屋「角屋」を見学してきました。

見学と言っても、輪違屋は現在お茶屋として経営しているため、外観だけです。

 

さて、この置屋揚屋ですが、あまり耳慣れないものだと思います。またここで、フリーペーパー『島原のQ&A』から引用です。

揚屋は太夫や芸妓を抱えず、置屋から太夫、芸妓を派遣してもらって、お客様に遊宴をしていただくところであります。揚屋は料理を作っていましたので、現在の料亭、料理屋にあたります。ただし、揚屋は、江戸時代のみで、明治以降はお茶屋業に編入されます。

一方、置屋は太夫や芸妓を抱え、揚屋に派遣します。置屋ではお客様を迎えませんでしたが、明治以降、お茶屋業を兼務する置屋では宴会業務も行うようになりました。

この置屋揚屋の分業制を「送り込み制」といい、現在の祇園などの花街に「お茶屋(宴席)」と「屋形(芸妓、舞妓を抱える店)の制度として伝えられています。

 

置屋→太夫・芸妓を抱える。

           置屋への太夫・芸妓の派遣業務。

揚屋→太夫・芸妓を抱えない。

           現在の料亭に相当し、宴会業務を行う。

 

というのが置屋揚屋の違いです。

 

 

輪違屋

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 前述した通り、置屋輪違屋」は現在お茶屋業として経営しているため、中の見学はできません。

こちらは、ブログのその1でも紹介した通り、浅田次郎著 『輪違屋糸里 下 (文春文庫)』の舞台です。その歴史を感じさせる佇まいに、置屋として経営していた当時に思いを馳せざるを得ない趣があります。

輪違屋から太夫が呼ばれた時には、絢爛豪華な行列が揚屋まで続いたことでしょう。

 

 

角屋

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 現在角屋は、角屋もてなし文化美術館として保存されています。写真はその外観です。

一階と美術展示室の見学は¥1000。二階座敷の特別公開は1日に4回でプラス¥800となっています。今回は時間的な制約もあり、一階だけの見学となりました。

 

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チケットを買い入場すると、まず美術展示室があります。が、美術展示室は撮影不可なので写真はありません。美術展示室を抜けると、新撰組がつけた刀傷のある柱が目にとまります。係員の方にお話を伺いましたが、これは誰がつけたかはわからないそうです。しかし、新撰組の“誰か”というのは確実との事。新撰組が当時どのような組織であったかが窺われる貴重な遺産だと感じました。

 

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先へ進むと台所となっています。係員の方のお話によると、料理は盛り付けだけを行なっていたようですが、それにしてもかなり広い空間です。柱などは、灯火の煤で黒く変色していました。

 

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一番奥には松の間と呼ばれる部屋があります。庭に面しており、臥龍松と呼ばれる松が印象的です。1代目の臥龍松は枯れてしまったようで、現在は2代目を育成中との事。中央奥には、曲木亭と呼ばれる茶室があります。ここでは日中、太夫が茶の湯の手解きを行なっていたそうです。島原にはそのような文化サロンとしての機能もありました。

 

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そしてこの場所が、新撰組初代筆頭局長 芹沢鴨が暗殺直前に酒を呑んだいた(呑まされていた)という席。

 

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ちなみに、赤く見える二階座敷が別日に芹沢鴨が鉄扇を持って暴れまわり破壊したという座敷。二階座敷を見学すると中も見学できるようです。

 

以上、島原旅行記でした。

新撰組フリークの方は、八木邸と並び、行かなくてはならない聖地のひとつなのではないでしょうか。

 

 

おまけ

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西本願寺の太鼓楼(右)。新撰組が一時期屯所としていた建物です。島原からも近いので、観光に行かれた方は、西本願寺も是非。

 

京都旅行で花街「島原」に行ってきました その1

先日京都旅行に行き、寺院巡りをしてきました。

 

東福寺本願寺南禅寺などを巡る中で、西本願寺に行った際に時間に余裕ができたため、近くにある花街「島原」へと足を向けたのでした。

 

私が島原を知ったのは、浅田次郎新撰組三部作の二作目輪違屋糸里でした。

 

 

輪違屋糸里 上 (文春文庫)

輪違屋糸里 上 (文春文庫)

 

 

輪違屋糸里』は置屋・商家・壬生住人士などの女性側の視点を強く打ち出した作品。

物語は、新撰組がまだ浪士組と呼ばれていた頃から始まります。特筆すべきは、芹沢一派の人物造形の緻密さ。これがとても魅力的に描かれています。百姓と侍。詐謀と愚直さ。そして男と女。クライマックスに向けて、様々な対立構造が浮かび上がります。その中で、登場人物一人一人が止むに止まれぬところまで追い詰められ、クライマックスは「悲哀」に満ちた決断を迫られます。

 

 

さて、その舞台が花街「島原」です。

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写真はその入口の島原大門。

この門を潜ると、江戸時代には左右に整然と置屋揚屋が並んでいたそうです。

島原大門は島原の東に位置し、東西194.9m、南北242.1mであり、面積は47200㎡あります。

 

花街とは

さて、「花街(かがい)」というと遊郭と混同しがちですが、島原で頂いたフリーペーパー『島原のQ&A』では明確な違いがあると言います。以下、引用です。

明治以降の歓楽街は、都市構造とは関係なく、業務内容で「花街」と「遊郭」の二つに分けられました。「花街」は歌や舞を伴う遊宴の町であり、一方、「遊郭」は歌や舞もなく、宴会もしない、歓楽のみの町であります。

 尚、三省堂 大辞林を引用すると、

いろまち。遊郭。花柳街。

とあります。実際には「花街」と「遊郭」という単語には意味を同じくする部分があるのも事実のようです。しかし、高度な教養と技能を兼ね備えた遊女である、太夫(たゆう)を抱えているという自負を大切にし、島原では明確に区別しているという風に感じられました。