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Book review 〜春風駘蕩〜

気に入った本の書評・感想や本関連の話題を書いていきたいです。

信長の影 所収 『浅井長政』 岡田秀文

 

信長の影 (双葉文庫)

信長の影 (双葉文庫)

 

 現在、岡田秀文著『信長の影』を読んでいる。

これはそのタイトル通り、信長を取り巻く人物を描くことで信長の影を浮き上がらせていく短編集だ。場面説明や背景説明が多い作風ではあるが、これが登場人物の内面を強調させていて中々面白い作品という印象をもった。

 

第1編は上杉謙信の視点。第2編では信長の叔父、織田信光の視点。そして、第3編では浅井長政の視点が描かれる。

 

上杉謙信や、信光在世時の尾張統一時代の物語は目にするが、浅井長政視点となると意外と無いものである。そのためまず浅井氏の縁起を興味深く読んだ。

古来 、浅井家は北近江の守護職京極氏に代々仕えてきた国人であった 。長政の祖父亮政の時代に 、京極家内の家督争いに端を発した内紛に乗じて 、浅井家は主家京極氏を圧し 、北近江随一の勢力を誇るようになった 。しかし 、その権力基盤は盤石にはほど遠く 、京極氏の反撃 、京極氏の本家筋である南近江の六角氏からの圧迫 、美濃の齋藤氏の侵入などに悩まされつづけた 。

 

浅井亮政は病に没するその時まで六角 、京極との争いに明け暮れた 。跡を継いだ久政は 、六角氏との一戦に敗れた後 、六角氏との同盟の道を探った 。嫡子長政の正室に六角氏の家臣平井定武の娘を娶ったのも 、六角氏の意を迎え 、自らの権力基盤を高めようとしたために他ならない 。しかし 、皮肉なことに国内では六角氏に従属する屈辱的な同盟に 、反発するものが大勢となり 、久政は失脚し一時は琵琶湖湖畔の孤島 、竹生島での幽閉の身を余儀なくされた 。以来 、平井定武の娘を離縁した長政が当主の座にある 。

浅井長政というと、織田信長の髑髏盃のイメージが強く、浅井氏は久政・長政の二頭態勢で運営されていたのかという思い込みがあったが、父久政は竹生島で幽閉されていた時期があったのだ。しかし、信長に同盟を持ちかけられた当時は小谷城内で隠居しており、小説では実質的な力は失っている状態にあるとして描かれている。

 

ところで、浅井長政は15歳で家督を継ぎ、28歳で亡くなっている。肖像画を見る限りは、壮年の大名でありそうなものだったので、亡くなったのが28歳というのを知った時には驚いたものである。

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 小説では、若年の長政の葛藤がありありと描かれる。長政は見せかけは豪放磊落を装い、評定時には声を放てばそれが鶴の一声となる。しかし、内面は優柔不断という本性がある。この、統制の取れていない性格故に、家臣の統制に後々苦しむこととなるのだ。本作ではそんな、長政の苦悩が描かれている。

 

本作を読んで私は、家臣の統制に苦慮する若年の大名として、武田信玄の嫡子武田勝頼を連想した。勝頼も信玄が遺した重臣たちに軽んじられ、家臣の統制に苦慮した一人だ。勝頼は武断派の為、家臣の統制をはかるために無謀な戦を行い実績をあげ、求心力を得ようとした。しかしこれが裏目に出て、長篠の戦いで大敗北を喫する。対して物語の長政は優柔不断な性分から、評定をまとめることはできたが、自分の意見を出して部下を従わせるということができずに、滅亡の道を一歩踏み出してしまう。

同じような立場で、対極的な二人はいずれの手法でも家臣の統制が上手くいかなかったようだ。若年のリーダーが、年上の部下を従えるというのは斯くも難しいということなのであろうか。

李陵 中島敦

高校国語で中島敦の『山月記』を読んだ人は多いであろう。斯く言う私も高校で『山月記』を読み、その格調高い文体と、古代中国を舞台にした不思議で哀しき物語に魅せられたクチである。

李陵・山月記 (新潮文庫)

李陵・山月記 (新潮文庫)

 

 また、中島敦というと最近では「文豪ストレイドックス」という漫画・アニメ作品の主人公となったことで興味を持った人も多いのではないだろうか。私もアニメの第1話を視聴してみたが、山月記の李徴よろしく主人公中島敦が虎に化けて戦うという、荒唐無稽かつ痛快な作品であった。

 

さて、『李陵』は『山月記』と同じく中国を舞台にした物語である。

時は前漢。今から数えると2100年前もの昔の物語だ。李陵の紹介は、本文から引用するのが適当だろう。引用文からもわかるように『山月記』よりも平易な文章なので、興味を持たれた方は是非読んで欲しい。

陵は 、飛将軍と呼ばれた名将李広の孫 。つとに祖父の風ありといわれた騎射の名手で 、数年前から騎都尉として西辺の酒泉 ・張掖に在って射を教え兵を練っていたのである 。

冒頭で李陵は、五千の手勢を率いて匈奴征伐の助勢に向かう。しかし向かう敵は三万や八万の大軍勢。いくら李陵が練った精強な兵でも多勢に無勢、李陵は匈奴に捕らえられてしまう。脱出しようにもできず、そこで生きる決意をした李陵の苦悩が描かれていく。

 

また李陵が匈奴に身を売ったという俗説が流布し、李陵を見捨てようとする佞臣が大勢を占めていた中で、これを否定した男がいた。史記を記したことで有名な司馬遷である。しかし司馬遷の進言は不遜であるとして武帝の怒りに触れてしまい、司馬遷宮刑を受ける。宮刑とは、男性器を削ぎ落とすという最も醜陋な刑である。

 

あの高名な司馬遷宮刑を受けるとなると、周りが助けに入りそうなイメージを抱くが、当時の司馬遷の行状は以下のようなものだったそうだ。

後代の我々が史記の作者として知っている司馬遷は大きな名前だが 、当時の太史令司馬遷は眇たる一文筆の吏にすぎない 。頭脳の明晰なことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた 、人づき合いの悪い男 、議論においてけっして他人に負けない男 、たかだか強情我慢の偏窟人としてしか知られていなかった 。彼が腐刑に遇ったからとて別に驚く者はない 。

腐刑とは宮刑の別名である。宮刑を受けた司馬遷は生きることに対して苦悩する。しかし、司馬遷には父子相伝史記の編纂という生きる目的があった。ここが、匈奴に捕らわれた李陵の苦悩とは異なる点であり、生きる光明であったのだろう。

 

李陵は中国史的に見ても、別段その歴史に積極的に関わった人間ではない。しかし、前漢の騎都尉として匈奴征伐を行い、捕らわれ、生き続けたという史実がある。しかも李陵は、漢に対して戦闘行為を行うことを避けた。そんな李陵には、少なからぬ苦悩があったことは確かだろう。そして、李陵に類連して宮刑を受け、生への希望を失った司馬遷もまた。

中島敦『李陵』は、そんな人間の苦悩と個々人の生きる意味について切り込んだ傑作である。

高瀬舟 森鴎外

京都旅行の際、高瀬川を通り掛かった事がある。高瀬川流域には、新撰組の御用改めで有名な池田屋跡をはじめ、幕末志士の遭難地など史跡が数多くあり、私はそれらを回っていたところであった。

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佐久間象山 大村益次郎 遭難之碑(後ろに流れる小川が高瀬川

 

あの頃はまだ『高瀬舟』は未読であったが、高瀬川に架かる橋を渡り「あの高瀬舟の舞台か、小さい川だな」と思った記憶がある。現在の高瀬川は川幅が約4m程しかない。しかし『高瀬舟』を読むと、どうもそんな小川のイメージとは違う。成る程調べてみると当時は川幅が8mあったそうだ。

高瀬舟』はそんな高瀬川を舞台に、朧月夜に黒く沈んだ水を切る舟の上で、乗り込んだ人物の過去が語られる物語である。

 

そもそも高瀬舟とは何なのか?以下に冒頭を引用する。

 

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

 

 高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。それを護送するのは、京都町奉行の配下にいる同心で、此同心は罪人の親類の中で、主立った一人を大阪まで同船させることを許す慣例であった。これは上へ通った事ではないが、所謂大目に見るのであつた、黙許であつた。

過去を語る人物とは、とある罪人なのである。

しかしその罪人は、寡欲な人柄で遠島になるほどの罪を犯すようには思われない。しかもその罪とは殺人、ましてや縁者の殺人だったのだ。罪人は求められてその過去について述懐をはじめる。殺人の動機とは何だったのか。

現代今なお、その是非が問われ続ける倫理問題がここに提起されている。

五重塔 幸田露伴

露伴を読もうと思い立ったのは、

勝海舟の言がきっかけだ。

 

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晩年の勝海舟Automatic Image Colorization・白黒画像の自動色付けにより着色)

 

海舟の言行録『氷川清話』の中には、以下のような海舟流の小説論がある。

 

今の小説家はなぜ穿ちが下手だらう。諷刺といふことを殆んど知らない。たまたま書けば、真面目で新聞に毒づくくらいの事だ。気が短いのか脳味噌が不足なのか。馬琴の八犬伝も、徳川の末世のことを書いて不平の気を漏らしたのだ。ちよつとみると何の意味もないやうだが、その無さゝうな所が上手なのサ。

 

以下も『氷川清話』からだが、当時の小説を批判していた海舟が露伴の事は褒めているのだ。

 

小説も退屈なときには読んでみるが、露伴という男は、四十歳ぐらいか。あいつはなかなか学問もあって、今の小説家には珍しく物識で、すこしは深そうだ。

氷川清話 (講談社学術文庫)

氷川清話 (講談社学術文庫)

 

 

 

この一言に影響されて海舟フリークの私は、露伴五重塔を手に取った。

 

五重塔』は文語体で書かれた小説だ。

文語体というと小難しいという先入観があり読むのに抵抗があったが、その心配は杞憂に終わった。

露伴の江戸ッ子気質の軽快な文体で、すぐに物語に入り込むことが出来たからである。

露伴は文語体に抵抗がある方にこそ読んで欲しいと思う。

 

さて、『五重塔』は谷中感応寺の五重塔建築を巡る源太と十兵衛という職人を描いた物語である。

 

現在、モデルとされる天王寺五重塔跡の案内板には、

寛政三年(一七九一)に近江国滋賀県高島郡の棟梁八田清兵衛ら四八人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。総欅悸造りで高さ十一丈二尺八寸(三四・一八メートル)は、関東で一番高い塔であった。

とある。

 

どうやら登場人物は異なるので、この物語は五重塔とその時代を舞台にした、時代小説と位置付けるのが妥当そうである。

 

五重塔 (岩波文庫)

五重塔 (岩波文庫)

 

【あらすじ】

源太は先の五重塔を見事竣工させた名棟梁。粋な江戸ッ子気質で、気風の良いさっぱりした好男児。情もあり、棟梁としては申し分のない人物だ。

対して十兵衛は、源太の元で働く一大工。腕は確かだが、“のっそり”と渾名され揶揄される風采の上がらぬ男である。

感応時からは、始め源太に五重塔建築の依頼があった。しかしこの一生に一度あるかないかの一大プロジェクトに魅入られていた十兵衛は、五重塔建築を自分に担わせてくれるよう感応寺の上人に懇願する。それを聞いた上人は、二人を呼び寄せ、雑談の中で説話を説き、どちらが建てるかは二人で相談して決めるように諭したが…

 

 

さて十兵衛であるが、腕はあるが上司や同僚とのコミュニケーションにやや支障がある、世渡り下手な男。という現代にも通じる人物設定。

その十兵衛が一世一代を賭け、取り組もうとしたのが五重塔の建築だ。

棟梁源太は、相談で妥協点を見出そうとするが、そこは十兵衛も江戸ッ子。やるかやらぬかの二択に一つしか答えを認めない。この二人の対話が江戸ッ子という気質の本質を描いているようで非常に面白かった。

 

また人望ある棟梁源太だが、情をかけたと思ったら次には怒ってみたりと気の短さを窺わせる。対して十兵衛は愚直に一点張り。実は確固とした定見を持っていたのは十兵衛かもしれない。

しかし物語は、二人の勝敗を決めたり、甲乙付けようと言うものではない。相容れない理屈を通して江戸人の気風を描こうとしたのではあるまいか。

 

最後に、五重塔を建てたいと十兵衛が拘ったのはエゴだとする評がある。確かにそうかもしれない。しかし、後世に源太と十兵衛の二つの五重塔が建つということはその建築様式や建築技術の多様性の確保という点で有益ではなかろうか。また、最大多数の最大幸福も実現されるだろう。

露伴の『努力論』には、“植福”という考えが提案されている。

植福とは何であるかというに、我が力や情や智を以て、人世に吉慶幸福となるべき物質や情趣や智識を寄与する事をいうのである。即ち人世の慶福を増進長育するところの行為を植福というのである

植福を鑑みれば、十兵衛は「人世に吉慶幸福となるべき物質や情趣」を寄与した。

であれば、十兵衛の行為はエゴを超越した行為であったと評価してもいいだろう。

雪信花匂

清原雪信。


狩野探幽四天王の一人である久隅守景の娘である、狩野派の閨秀画家。
短編集「乾山晩愁」の中で唯一の女性主人公だ。

 

私は以前サントリー美術館で開催された、「逆境の絵師 久隅守景展」において久隅守景の絵と、本作主人公の清原雪信の絵を鑑賞した。狩野派では珍しい閨秀画家でもあり、源氏物語を画題とするなど他の狩野派絵師との作風の違いが印象的で、鮮明に記憶に焼き付いている。

 

物語には、久隅守景展で展示された守景の代表作「納涼図屏風」も登場し、登場人物の嗜好の表現や、狩野派における守景らの立ち位置を表現するのに一役買っている。(私は残念ながら、会期を逃してしまい鑑賞する機会を逸してしまったが)

 

雪信花匂では、江戸期の狩野派画家達のしがらみ・確執を雪信の視点から描いており、無論雪信もその中に組み込まれていく。そのような中で雪信も、探幽や守景の薫陶を受け、絵師としての自立の道を見出していくのだ。

 

女性ならではの視座で、人間間の愛情を描ききった作品だ。

 

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久隅守景 「納涼図屏風(部分)」

 

乾山晩愁 (角川文庫)

乾山晩愁 (角川文庫)

 

 

 

等伯慕影

桃山時代、常に画壇のトップに在り続けた狩野派を一時脅かした画人がいる。

 

それが、本作の主人公 長谷川等伯 だ。
物語の等伯は他人を顧みず、自分の信じた画業に邁進する人物として描かれている。

 

等伯慕影」は同短編集に収録されている「永徳翔天」と時代的にも重なり、両作に共通する登場人物も多い。そのため、「永徳翔天」では触れられなかった人物の前史が明らかになるなどの楽しみもある。

 

さて、本作の読みどころの一つに、高野山成慶院所蔵の長谷川等伯作「武田信玄像」の解釈がある。この武田信玄像に描かれる人物は、髷を結っている点や、脇差二つ引両の家紋が入っている(武田家の家紋は四ツ割菱)点などから、畠山義続ではないかとも言われて久しい。この武田信玄像に描かれた人物が誰なのか。本作では、物語の中でひとつの解釈が為される。そして、その一件が等伯の人間性に終生影を落とすことになっていくのだ。

 

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長谷川等伯 「松林図」

 

白い闇に囚われ、影が生じる

黒と白の対比が印象的に映る作品だ。

 

 

乾山晩愁 (角川文庫)

乾山晩愁 (角川文庫)

 

 

 

 

永徳翔天

戦国期の絵師、狩野永徳

 

狩野派は、初代正信の時代に室町幕府の御用絵師となり名声を高めた。
その後も時の権力者に仕え、永徳の時代には織田信長に仕えている。そして、江戸期には再び幕府の御用絵師として権勢を奮う。


物語は織田信長が将軍足利義昭を奉じて上洛した永禄11年より始まる。

この短編集は、絵師と同時代のビッグネームが登場することが一つの特徴であるが、本作の場合は万見仙千代がそれに当たる。
仙千代の名は他作品と比べるとやや知名度は下がるが、信長好きの人には馴染みのあるものだろう。


万見仙千代は織田信長に小姓として仕えた。信長の小姓というと森蘭丸が有名であるが、仙千代も蘭丸同様に、眉目秀麗な容姿をしていたとされることが多い。

 

永徳は、この万見仙千代との出会いにより、未だ田舎大名という認識しかされていない織田信長に接近することになる。これが、永徳の人生の転機となっていくのだ。

信長は「天を翔ぶような絵」を所望しているという。


この翔天の意味とは何か。
永徳は安土城の障壁画を描きながら、その真意に迫る。

 

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 狩野永徳 「唐獅子図」

 

 

乾山晩愁 (角川文庫)

乾山晩愁 (角川文庫)